3. あなたもデザイナーに!?

3-5.編集とデザイン

1999年夏、間もなく60歳定年というある日のこと、編集工学研究所の松岡正剛氏からある案内状をいただく。氏が率いる研究所で、新しい試みの「編集学校」を開設するので一緒に楽しまないか、というものであった。そのころの私は、36年間勤めてきたホンダを去るに当たり、少々ナーバスになっていた。

そんなころ読んだ本、森村誠一・著の「老いのエチュード」に、「新しいことへの挑戦の薦め」というくだりがあり、この新しい「何か」を懸命に探しているとき、偶然、話が舞い込んできたというわけだ。私はすぐさま誘いに飛びついた。「セレンディピティ(「探し物をしているなかで偶然出会った、思ってもいない不思議な出会い」の意)」のごとくに、である。

案内を受けた「編集学校」は、インターネットによる一種の通信教育で、いくつかの教室があり、師範の出す課題を踏破していくという仕掛け。ここで教科書としても使われていたのが、「知の編集術」という松岡氏の著書。一読しての直覚は、編集という仕事は、私が長年やってきたデザインと同じではないかということであった。考え方もプロセスも、である。もしこの本を、私が20代30代で読んでいたなら、さぞかしもっと、楽に良いものができていたろうとも思った。

著書の中で最初に、「知」とは何か、「編集」とは何か、という問いかけに出会う。あれこれの情報が「我々にとって必要な情報」になることを「知」といい、また、「コミュニケーションの充実と拡張に関する方法」が「編集」である、と解説する。「知」も「編集」も、氏は異なる視点で対角線にぶち抜いたような発想で、異文化や異分野、異質なモノやコトの間をつなぐ広域な行いであると捉えている。Designの語源はラテン語のDesignare。本来の意味は、「行為に先立って、その目的と方法を考える」ということ。デザインの意味も深く広い。

こうしてみると双方とも手を動かす前に、WhatとHowを考え抜くというところで共通している。氏は中でもHowに重きを置く。そして「術」とは、型を身につけることだと説くところが、日本的で嬉しい。また「編集術」とは、情報を創発するための技術だとも指摘する。

そこで氏は、文化と文明、編集と工学をまぜこぜにした「編集工学」という新しい世界を創造した。デザインは、「科学」「芸術」「経済」「情報」を統合するインターデシプリナリな存在であり、企業にとっては知識を創出するための一つの方法でもあるという、私の辿り着いた考え方とも合致する。

と同時に、知的創造の方法として、言語的方法(メタファー)、視覚的方法(デザイン)、因果的方法(システム)がある。ここにも符合を発見できる。仏(ほとけ)の教えにある、眼・耳・鼻・舌・身・意・識の、すなわち身体と心のコミュニケーションにより、心技が一如になるところまで、この本は読者を誘い込む。それは編集という作業が、いかに苦しくも楽しいものかを、氏が知り抜いているからであろう。

私はこの本に出会えたことに感謝するとともに、デザインという仕事に携わっている人、志している人に、是非ともこの本を我がものにされるようお薦めしたい。守・破・離とある段階の、いまだ「守」レベルの私ではあるが、読み込むほどに、その効用は、一に、元気にしてくれる。二に、何をやるにも楽しくなる。三に、創造力が高まる、であった。

その後、多摩美大プロダクトデザイン専攻を預かり科内の改革を進める傍ら、何本かの論文に取り組み、立命館大学で経営学博士号の取得、自著の出版など、「知の編集術」からいただいた元気と創発の力は計り知れず大きかった。勇んで取ってしまった編集学校の学籍番号00‐00001番の役目、少しは果たせただろうか。

「一読、十笑、百吸、千字、万歩」と、古人の教えがある。老いを感じさせない活き活きとした生活を送るために、一日にこれだけは励行すべし、ということだ。私がこの教えを知ったのは60代半ば、この位はできるだろうと高を括っていたが、いざ実行するとなるとなかなか難しい。 なかでも、「一読」と「千字」は、よほどその気にならないと続かない。良い本を選ぶ、想いや情景を綴る、豊かな語彙を身につけることによって、品位のある知的な自分をデザインすることができる。きっと、素晴らしい人たちとの出会いと、豊かなコミュニケーションが生まれることだろう。