4. 暮らしの中のデザイン

4-5.半歩先を行く

デザインは、「新しさ」が命と言われる。が、これが難しいのだ。進みすぎても人はついてこられないし、ちょっとでも遅れると、誰ひとり振り向いてくれない。本田宗一郎は「半歩先」と言っていた。一歩だと、先を行き過ぎるというのである。

同様なことを、アメリカの著名なインダストリアル・デザイナー、レイモンド・ローウィは、「Most Advanced Yet Acceptable」の頭文字を使って、「MAYA」と言っている。すなわち、「受け入れられる最も進んだ状態」ということだ。

この位置を見定めるのが、モノづくり、ことにモノを産み出す過程でもっとも楽しいところだが、マーケットリサーチやユーザーアンケートなど、最新の科学的手法をもってしても、この半歩先の距離感を見つけるのは難しい。

なぜか?それは直覚(感性)の世界だからである。と言うと、そこから先なかなか進まないのだが、経験的に言えばそれは、先にも述べた5感、すなわち、視覚聴覚・嗅覚・味覚・触覚を研ぎ澄まし、その全機能を使った判断(意)、それが直覚や第6感と言われるもので、これに頼らざるを得ない。

最近は、これが働く人は少ない。と言うよりほとんどの人は、これを働かないようにしている。How to本を読み、インターネットを見、携帯を使って動いていれば、5感が働く余地もない。これでは第6感が鍛えられるわけがなかろう。本田さんの言う「現場・現物・現実」の3現主義は、5体、5感、全知全能を傾けて事に当たれと教えている。

人間は「欲望」と「競争」の生き物。ゆえに新しいものを好み、世の中は絶え間なく日進月歩する。その新しさをどう摑えるか。いつにモノづくりはそこにかかっていて、だからこそ、技術以上に感性が重要とされる。

料理の世界で、「旬」という言葉が使われる。新鮮な素材、それに相応しい料理方法、そして料理の腕前、この三つが揃わないと、いくら器が良くても盛りつけに工夫をしても、人の心を打つ美味しい料理にはならない。

デザインも同様で、新しい材料、新しい製法、新しい技術が必須となる。そして、この三つをつくるのに最も重要なのは、料理もデザインも同じで、「どんな料理(モノ)をつくりたいか」という「コンセプト」で、これらが全て揃って、始めて「新しい」デザインが生まれるのだ。

「新しさ」は、「科学」によってつくられる、ともよく言われる。科学と言えば、文明とくっついて「科学文明」、明治の文明開化は西洋から入ってきた科学によって形成された。芸術は文化と合せて「芸術文化」、平安文化、室町文化、元禄文化などとなる。こうしてみると、科学は文明を生み出し、芸術は文化を育くむということになる。では、デザインは文明なのか文化なのか、

「文化」は、英語で言うと「Culture」である。カルチャーセンターの「カルチャー」だ。この語源は意外にも「Cultivate」で、耕すとか農業をするという意味。良い土や水を見つけ、耕し種をまき、芽が出て茎や葉が育ち、花が咲き実が成り、そしてまた種に、のように時間とともに「変化」する。

良い土や水を如何にして見つけるか、天候を読み如何に上手に育てるか、という個人の感度や技量が鍵を握る。当然、各人の能力と個性で違いや差が出てしまう。「こと(野良仕事)」をなすのは難しく厳しい。

「文明」は、「Civilization」である。語源である市民(Civil)が町(City)で豊かに暮らせるようにと、為政者は科学や技術を駆使し、できるだけ市民全体が「平等に均質に」と願って努力する。水道やガスが良い例だ。当然、年々値段が安くなるとか、水質が良くなるなどの「進歩」が期待される。だから、ほとんどの「モノ」には値段(お金)が付く。

このように考えると、「文化」は、変化し個性的で数値に表わしにくい「こと」という風に言える。これに対し「文明」は、平等を願い進歩を期待し、「モノ」を誰にでも分かる数値で表わそうとする。

文明と文化、どちらが良いというのではない。どちらも大事である。が、この半世紀、科学文明に偏り過ぎたことは否めない。私は、「進化」という言葉が好きだ。「進歩」と「変化」が組み合わさってできた言葉だと思うからだ。むしろこの二つが互いに鬩ぎあって、まぜこぜになっている姿がよい。「半歩先」は、この「まぜこぜ」の中から生まれるのではあるまいか。