4. 暮らしの中のデザイン

4-6.本物と偽物

2006年ごろ、大学のデザイン授業で小学校の給食用の食器をつくる課題が出た。給食の食器は今、ご飯やおかずを分ける仕切り付きのトレイになっていて、ご飯やおかずはそのトレイ上に一緒に盛りつけてあるようだ。

トレイはプラスチック製で、昔の給食に比べ質も味もよくなっているが、少々味気ない感じが。でもこれならは落としても壊れないし配膳も洗うのも簡単で、なにより低コストである。

が、「お皿一枚に全部を盛りつけるなんて、本物じゃないと思います」と学生が。聞いてみると、この学生が小学生のころの給食はプラスチックではあったが、ご飯やおかずや味噌汁など、それぞれに食器が分かれていたという。

今、ほとんどの製品には、以前に比べ素材や製法の進んだ様々なプラスチックが使われている。食器のみならず身の回りを見渡しても、そのことがすぐに理解できるはず。が、50年ほど前(1960年代)は、金属や木やガラスなどの安価な代用品をつくるのにプラスチックが多用されていた。だからプラスチックで何かをつくることは「代用品」をつくること、つまり「偽物」をつくることと思われていた。

車のメッキの部品は、もともとは光らない鉄をピカピカ光る貴金属に見せようとするための手法。今のバンパーはプラスチックが主流だが、そのころはまだ鉄に厚いクロームメッキを施すのが普通で、ギラッと光らせることで高級感を出していた。

だから、塗装したバンパーは安っぽいとして敬遠された。同じころ、私が開発に関わった軽自動車の「ホンダN360」でさえ、メッキされたバンパーを付けていた。この車は高級車ではないので塗装したバンパーでも実用上問題はないのだが、お客さんの「本物を手に入れた」という満足感を考え採用したのだ。

さらに、この車のトランクリッドはプラスチック製であった。これはそのころの日本の車には珍しく、鉄板に比べて車体を軽くできるし、何かに少しばかり当たっても凹まずに元に戻る。軽自動車としてのメリットは大きかった。

ホンダはこうした利点でプラスチックを採用し、決して鉄のトランクリッドの代用品として考えたのではない。ところが、見た目はまったく分からないのに、プラスチックであることを知ってしまった人の中には「本物じゃあない」という人もいたくらいだ。

「プラスチッキー」という言葉がある。1980年代のはじめ、開発完了した車を市場検定のためアメリカや欧州に持ち込んだ際、外国人営業マンからよく言われた言葉。自動車の内装は、インパネやドアライニングなどほとんどの部品は様々な種類のプラスチックでつくられている。

それらを見て「プラスチックのようだ」と言っているわけで、当然、よくないという意味だ。プラスチックを使っているのに、「プラスチックのようだ」とはどういうことなのかと。

その後彼らとのやり取りで分かったことは、自動車の内装は本来、革や木でつくられていたもので、自然で優しく温かい見え方や肌ざわりがあった。我々のつくったプラスチック製のものには、そうした本物がもつ良さがないということだった。

プラスチックは西洋で発明され、一般的に合成樹脂またはその成型品を指す。特に内装材として使う場合、先に述べた利点に加え、複雑な成形やその精度確保に適しているし軽くて安いというメリットがある。が、その半面、てかてかと光ったりぺこぺこと曲がったりこんこんと音がしたりで、それらが軽薄感や安っぽさを与えてしまう欠点も。

その欠点を取り除くために、本物の良さすなわち質感の表現を徹底的に研究し、本来の利点を活かすべく努力を重ねた結果、本物より本物らしい偽物が出来上がり、何年か後には西洋人を喜ばせるに至った。

「本物」があるから「偽物」があり、「本物」がないところに「偽物」は存在しない。また仮に「偽物」が「本物」を越える品質だったとしても、「偽物」だということに変わりはない。「偽物」にはいくつかの場合がある。「モノ」を真似た場合、「つくり方・やり方」を真似た場合、「考え方」を真似た場合である。

デザインの基本は「モノつくり」だから、「偽物」との関わりは「モノ」に関する場合が多い。デザインの模倣や盗用がこれに当るが、残りの二つの場合であることも少なくない。このところ「パクリ」の話が世間を騒がしている。一デザイナーとして、表現者としての良心の欠落がもたらした深刻な問題と受け止めている。