6. デザインされた“日本の美”

6-2.富士山は美しいのか

現役時代、本田宗一郎さんから「日本人は、なぜ富士山が好きなんだろうね」と聞かれた。咄嗟に、「美しいからじゃないでしょうか」と、あまり上手ではないお答えを。するとさらに、「どこがどういう風に美しいんだい」と聞かれて答えに窮した。

小さいころから、富士山の絵はずいぶんと描いてきた。奈良の三輪山の優しい美しさも好きだが、富士山の厳然とした美しさは年を重ねるほどに好きになった。富士山は、周囲に高い山が無く全体の姿が見渡せるので、繰り返された噴火で形づくられた稜線の対称な放物線がよく分る。葛飾北斎、林武といった時代を代表する画家たちが惹かれた理由もその辺に。

さらに、対称形の富士山は見えない正中線を内在し、人に安心感と安定感を与えてくれる。また富士は古くから信仰の対象とされ、修験の行者が登拝していた。江戸時代には庶民のあいだで、富士山信仰の「富士講」が人気を集め、白装束の行者が鈴と金剛杖を持って、「六根清浄」と唱えながら集団で登ったという。 

富士山の美しい姿に、人々が神の存在を感じとったからだろう。六根とは、眼耳鼻舌身意、この6つのセンサーの根っこに当たるもの。これらを山が持つ霊気で清めることで、穢れのない清々しい人間になろうと励んだわけだ。

カントは、「人間の造形物はすべて生物の身体部分の模倣である」と言った。またマルクスも、「ミツバチの巣の完璧さには建築家も赤面せざるを得ない」と言っている。自然界に見られる形の完璧さには、どんな優秀なデザイナーでも到底太刀打ちできない。カントの言葉通りなら、デザイナーが懸命に辿りついた形は、もともと自分の身体の中にあったものということだ。 

自然に存在するものは、曲線を使わない限り描き表せない。自然界には直線も平面も円弧も存在していない。こうしたものは概念としてしかこの世に存在しないのだ。静かな水面も実際には地球の引力の影響を受けた球面だろうし、その表面は水の分子が不規則な運動を繰り返しているはず。地球上に存在する幾何形態はすべて人工のものなのだ。

幾何的に正確な形は、人の気持ちに馴染まない。富士山の左右対称が幾何学的に正確な対称ではない。あり得ないことだが、もし富士山が幾何的に対称であったとしたら、それを仰ぎ見る人間のこころに何かしらの違和感を生じさせたろう。

自分の顔写真の中心に鏡を立てて見るとよく分るが、それは確かに自分の顔なのだが、うまく説明できない不思議な感じの顔になるもの。人の身体は、対称に見えて左右は微妙に違っているのだ。放物線は強さと美しさの現成である。それも力任せではなく、しなやかな強さ芯の強さであり、竹のしなりや城の石垣の稜線などに明らかだ。

カントを気取るわけではないが、私はこれらが人の身体の一部に似ているような気がしてならない。放り投げられた石、発射された弾丸、ミサイルやロケットの軌跡ももちろん放物線。釣り竿は先に行くほど細い竹が使われているから、かかった魚を引き上げるとき、棹のしなりは放物線に近づく。

生物の身体の形には直線も平面もなく、さらに非対称である。人工のものの多くは主に直線と平面から成り左右対称の場合が多い。対称のものは確かに安定感があるし現実にモノとして丈夫である。

そうしたものは寸法や容積を測りやすいから、定規やコンパスで図面として描き表すのが容易で機械でつくりやすい。人間の技術や学問はこのような理解が容易なところを中心に発達してきたのだろう。

戦争映画やテレビドラマなどに出てくる戦闘機の形は、人殺しの道具という点を別にすれば大変美しい。戦闘力や速度といった機能を最大限に発揮できるように形の無駄を省くとあのようになるのだろう。アメリカのF15も、ロシア(旧ソ連)のミグ25も似たような形をしているのがその証しだ。

こうした例から言っても、我々人間を含めた生物のかたちが美しくないはずはない。何億年ものあいだ、改良に改良を重ねてきたのだから当然と言えよう。洗練とは、こういうことを指すのであろう。地球上の生物の身体は、生きるために最も合理的につくられた形をしている。

このように、合理的につくられている身体の形と動きを受け止めなければならない身の回りの道具のデザインは、そうした点での合理性を要求される。が、富士山の美しさは、日本人の心という非合理さが加わっての美であろうと私は考えている。