6. デザインされた“日本の美”

6-4.桂離宮と陽明門

富士山は、自然がつくった造形物に、日本人の心が加わって創られた「美しさ」だと先の項で述べた。司馬遼太郎は講演録「裸眼でみる『文明と文化』」のなかで、「日本には清潔好きというややこしい病気があります。『古事記』『日本書紀』の時代からの清潔好きです」と述べている。そんな日本人の心(意)と匠(技)が作った造形物について考えてみたい。造形物の代表はなんと言っても建物である。

1980年代のはじめ、英国の企業との共同開発事業が始まり、そのプロジェクトリーダーとして、日本のアイデンティティは何か、ホンダの企業文化の独自性とは、と、日夜真剣に考えていたときの話である。「桂離宮と陽明門、どちらが日本的かね」と上司から訊ねられた。好き嫌いは言えたものの、どちらが日本的かなどと考えたこともなかった。いずれも、日本を代表する建てものであることには違いないからだ。

学生のころ、歴史や美術の授業や修学旅行などで、「桂離宮」や「陽明門」について教わってきたが、20年以上も経って、こんな話になろうとは夢にも思っていなかった。それにしても、「桂離宮」と「陽明門」の姿・形は、全くといっていいほど違っている。これらが、400年ほど前の同じ時期(江戸時代初期)に、同じ日本人がつくったものかと不思議に思えるくらいだ

京都の桂離宮は、もちろん日本を代表する建造物の一つで、書院造りの最高傑作とされている。「簡潔さ」の追及を通じて得られた、木造建築の「美」の証(あかし)と言ってよい。もう一方は、徳川家康が祀られている日光東照宮の陽明門。その「華麗な美」は、桂離宮の「簡潔な美」と対照的。

前者は、貴族階級の優雅さを追及した結果であり、後者は、武士階級の力が台頭したことの証明であると言えよう。このどちらもが、日本的洗練の極みであることは間違いない。いずれにも、日本人の手業(てわざ)の凄さが感じられる。こう言った両極端の「ものごと」のバランスをとり、それぞれの存在を調和させてきた結果が、日本の文化なのだろうと私は思う。

長いあいだ、日本人からは振り向かれることのなかった桂離宮だったが、1933年、ドイツから亡命した建築家で都市計画家のブルーノ・タウトによって、その価値を見出され世界に広められた。彼は「泣きたくなるほど美しい」と絶賛し、装飾を排した簡素な美を近代的建築美にも通じるとして高く評価した。またこのころから、同時代の建築である日光東照宮とも比較して語られるようにもなった。

やはり、我々日本人は、「和を以って尊し」とする民族。「華麗」と「簡潔」のどちらもが「日本的」だと言える。そんな屁理屈とも言えない説明をしたら、上司は、「要は、正反対の二つの美のバランスを極めると言うことかね、これは大変なことだな」と言って出て行かれた。

「相克」という言葉がある。お互いが勝とうとして争うことだが、相手を打ち消そうとするのではなく、自分の中に取り込んでしまうことで、これが「バランス」の取り方の日本的な方法なのであろう。

やはり一度、そのつもりで観てみることにしようと、桂離宮、陽明門とも時をおかずに訪ねることにした。不思議なことに双方とも、これまで頭に描いていたものと違った印象を受け、どちらも「清々しい」感じがしたのを覚えている。そして、これらに心を動かしているのは、私同様に庶民的な人たちだったのも興味深かった。

庶民的と言えば、桂離宮や陽明門が建てられたと同じ江戸のはじめ、商人のあいだで生まれたのが、町屋とよばれる建ちの低い2階(厨子二階〈つしにかい〉)を備えた、袖卯建(そでうだつ)を上げた家屋である。瓦葺き、漆喰塗籠めの壁を持つ町屋の厨子二階は、街道沿いに建てられた町屋の表に造られ、大名の往来を上から見下ろすことが失礼に当たるというので、居間ではなく物置として造られた。

敷地の真ん中に坪庭を配置することにより、通気性と採光を向上させるかたわら、そこに石や植物などをあしらった庭をつくり、通りに面した空間と奥の空間、すなわち、公と私を区分けする細かい配慮がなされている。 

京都のそれも有名だが、兵庫県伊丹市に現存する町屋(1674年築)の、隅々まで心と技の行き届いた清楚な佇まいは、日本の美の現成と言ってよい。我々日本人には、先人たちによって受け継がれてきた、自然物であれ人工物であれ、こんな素晴らしい伝統美がある。