6. デザインされた“日本の美”

6-6.お伊勢参り

「お伊勢さん」で親しまれる伊勢神宮(正式には「神宮」)は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る内宮と豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る外宮、別宮などの総称。天照大御神は皇室の祖先神「国の祖神(おやがみ)」である。

江戸時代、お伊勢参りは神社の中でも別格として、「せめて一生に一度」、と歌われ庶民の夢だった。年間300万人を超える人が詣でたこともあったとか、その人気は今も衰えることはない。十辺舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」の大ヒットで、「お伊勢参り」が「おかげ参り」に繋がり、さらに盛んとなる。

「旅は道連れ世は情け」、「袖触れ合うも多生の縁」という言葉も、こうした中から生まれたもの。人々は旅を通じて、道中での見知らぬ人との出会いや情の交わし合いを通じ、多くの知識や経験を得ることができたに違いない。

鎌倉時代、武士を捨て僧侶となり歌人として旅をつづけた西行が、伊勢神宮を訊ねて詠んだ、「何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」がある。仏教徒である西行が、見ることのできない神を拝んで、その神々しさに涙を流して詠んだとされる。富士山、桂離宮、陽明門に共通する日本特有の「清々しさ」の原点が、ここある。

伊勢神宮では20年に一度、「式年遷宮」という行事が行われる。最近では平成25年(2013年)に行われた。「遷宮」とは、社殿をそっくり建て替えてご神体を移動し、同時に神寳や装束も新しくつくり替えること。1300年あまりの歴史を誇る神様の引っ越しなのだ。

材木を切り出してから立て替えが完了するまでに8年を要し、この行事は、職人の世界の極めて高度な技術の継承に繋がっている。高度な技法は、いかに優秀な職人であっても一生をかけなければ習得できない。

が、こうした技法を必要とする仕事がそうそうあるわけでもなく、必死に身につけた技法を後継者に伝えていくことも難しい。この厳しい状況下で、神宮の神寳の製作により、高度な技が長い時間にわたって蓄積され今に伝えられてきたのである。

近年になって社殿、神寳などの図面が描かれるようになる。が、それらがいかに詳細なものであろうと、職人たちが図面だけで仕事を完成させることはできない。新たに神寳・装束をつくろうとする職人は、以前につくられたモノを見ながら、形、色、材料の処理法などを徹底的に真似るのだという。

おそらく「式年遷宮」に招聘される職人たちは、高度な技術の持ち主であるからこそ、こういうことが可能だったのであろう。

参加した職人達の話によると、職人の技というのは、才能のある人が長い間懸命に修練を重ねれば必ずあるレベルに達する。問題はその先で、式年遷宮での仕事を例にすれば、手本となるものと寸分違わぬものを、如何に高度な技術を駆使してつくったにしろ、それは単に見かけが似ているに過ぎない。

昔の職人が「モノつくり」に込めた「こころ」を感じとり、それを作品に再現しなければならない。そしてさらに、新たな自分の「心を込める」ことが出来なければよい仕事とはならないと言うのだ。

推測するに、60代の棟梁と40代の現役バリバリ、そして20代の新人が力を合わせ、いつの時代にも、つねに共通の高い目標を持ちながら、力のかぎりを尽くしてきたからに他ならない。創造と伝承の秘訣と言えよう。

これを、家庭に置き換え考えてみたい。「人間50年下天のうちを比ぶれば~」 と、信長が「敦盛」を謡ったころと違って、今は人生80年の時代。核家族時代だとは言え、長寿を誇る日本人の多くは、ばらばらに暮らしていても、親子3代、揃って元気に生きていける時代だ。

伊勢神宮の遷宮は20年に一度。我々は四半世紀に一度の世代交代だとしても、70歳、45歳、20歳と家風を繋げていける。大事なことは、築かれた家風をしっかり繋げていく意志と、時代に合わせ新しくしていく意欲を常に持ち続けることだ。親から子へ、子から孫へ、ときには3代揃って、ビッグプロジェクトに挑戦してみるのも楽しいものだ。

私の、50歳のモニュメントとして建てた我が家の富士見高原の山荘、親子でのビッグプロジェクトであった。娘たちが成人し、結婚し、子供も授かった。今は孫たちの遊び場になっている。私自身も、ここをデザイン道場「楽塾」の拠点として、ホンダの後輩や大学の教え子たちとデザイン談義を楽しんでいる。