8. 素晴らしき哉“デザイン的人生”

8-5.エレガントに生きる(文質彬々)

1980年代の初め、2代目「ホンダプレリュード」を開発していたころのこと。他部門の先輩から、「あなたのデザインはエレガントですね」と言われた。私は40歳になったばかり。それまで、エレガントを「やさしさ」とか「しとやかさ」、いわば女性的で弱々しい感じと捉えていてあまりいい気はしなかった。

が、その後に海外の生活が長かった友人から、エレガントの本来の意味には弱々しさなど微塵もなく、鍛え抜かれた身体のような「しなやかさ」を指すのだと教えられ、得心した。先輩は、褒めてくれていたんだと。

同様に一人合点していたのが「粋」という言葉、長いこと俗っぽい言葉だと思っていた。が、九鬼周造が「いきの構造」という著書の中で、「粋」を貫くには、生死をかけるほどの覚悟が必要で、「粋」は「生き」と「逝き」からきていると。その緊張感が「艶」や「色気」を生み出すと言っている。以来、好きな言葉となった。

「粋」は「エレガント」に比べ、たしかに俗っぽいところもなくはないが、決して下品ではない。むしろ、その潔さに品格さえ感じる。また「粋」には「やせ我慢」がつきものだが、「我慢」の強さをもたない「粋」は存在しない。「エレガント」も同様で、根底に「強さ」がないと成り立たない。

それに「エレガント」は 「優雅」と訳されることが多いが、どうしたら人の目に優雅に映るかの背景を抜きに安易には訳せない。江戸っ子の「粋」に「若さ」が加わると「いなせ(鯔背)」になるらしい。日本流に言うと私の目指したデザインは、「粋」で「いなせ」いうところだろうか。

昔の貴族は洋の東西を問わず、「優雅=エレガント」を美徳に生きていたようだ。それは、現代の我々が想像するほど楽なことではなかったろう。いつ失脚するか分からない、常に身の危険にも晒されていた彼らが生きた優雅な世界は、様々な緊張感に支えられたもの。ぎりぎりのところで生きることが、そのエレガントさに磨きをかけてきたとも言えよう。

一介の芸人であった世阿弥も、彼自身の暮らしは「雅」の世界とはおよそ無縁であったにもかかわらず、舞台の上では貴族文化の優雅さを完璧に表現することができた。それは、観客と対峙した緊張感をもとに「雅」を表現したからに他ならない。

1990年代の初め、初代「ホンダオデッセイ」のユーザー調査レポートを見ていて分かったことがある。オデッセイのお客さんの多くが、この車のデザインを「エレガント」だと感じてくれたようだった。大ヒットした理由は、多分そんなところにあるのであろう。お客さんから「エレガント」と評されたことは、それを求めてきた者にとって冥利に尽きることだった。

同じころ中国の人たちが、ホンダとの共同事業の可能性を探るために来日。私は会食後の雑談のなか、彼らの前で中国の古書にある「文質彬々」という文字を書き、「これが私のデザインポリシーです」と胸を張ると、「これは、大変良い言葉だ」と皆さんに褒めてくれた。

良い機会だと思い、この言葉の意味が、中国での本来の意味と私の理解に齟齬はないか尋ねると、ある人が、「この言葉の意味は『上品』ということです」と。外見と本質(中身)が同じく揃って、はじめて「品格がある」ということだそうで、理解が違わず安心した。それに、隣に座る英語が堪能な中国人が、「英語で言うなら『エレガント』です」とも。

振り返ってみて私が考えやってきたことは、知らず知らずのうちに「エレガント」に繋がっていたようだ。30数年のホンダでの仕事のなかで、一貫して「エレガント」を求めてきたことに自信と誇りを持ちたい。

フランスに「シック」という言葉がある。他国語に訳すのはとても難しいそうだ。日本人は、「シック」のことを「枯れた」とか「落ち着いた」と捉えがち。が、どうもそれだけではないらしい。「シック」には「若さ」という要素が重要なのだという。

「シック」は、少し「いなせ」に寄った「粋」と捉えるのが良さそうである。そういう意味で私の目指したデザインは、「シック」で「エレガント」、「粋」で「いなせ」、というところか。少し贅沢であったようだ。

私自身この歳になって、エレガントになったかと聞かれると些か心もとない。が、その気で長く求め続けると、多少なりとも身についたり板についたりするのではないかと密かに思っている。みなさんの、人生デザインのお役に立ててもらえるだろうか。