8. 素晴らしき哉“デザイン的人生”

8-6.デザイン人生は続く<楽塾>

60歳の誕生日がホンダの定年退職日、1999年秋。それまでの1年間は、研究所の技術顧問として後進の相談役を仰せつかる。そこで、研究所の海外(北米、南米、欧州、アジア)支所廻りが手始めの仕事となった。

当時、欧州の研究所はドイツのフランクフルトにあった。私の講話のあと夕食の席で、私の退職後のことが話題となり集まった連中から口々に、「先輩たちの築いたホンダ流デザインを勉強できる『場』を考えて欲しい」、との要望が出た。

そのときは「それはいい考えだね~」と、いい加減な返事でドイツを後にした。が、しばらくして、「どうなりましたか」との催促のファックスが。さらにドイツからの出張者が訪ねてきて、「みんなで、餞別として看板をつくろうということになりました。歓送会にはお渡しできるようにします」と。

看板をつくるとなれば、早々に名前を決める必要がある。考えたすえ、数年前に年賀状に書いた一文字「楽」を使うことにした。この「楽」、困り抜いてつくった標語「明るく、楽しく、前向きに」から牽いたもの。結局、「楽塾」ということに落ち着いた。が、これでは、何を楽しんでやるところなのか分らないと言うので、サブタイトルに「デザイン道場」をつけることに。

名称を「デザイン道場『楽塾』」と決めたところで、その目的を、「デザイン力を共に育む」とし、デザインを志す若者が、ものつくりの楽しさや喜びを知り、感覚を研ぎ心を磨きながら、関連する知識や教養を身につけるための場を提供する、と定めた。

目標は、「世界レベルを標榜する」とし、①日本文化の固有性を探る ②経験に基づく心技の伝承 ③日常生活に生かす。すでに高いレベルにある日本のデザインを、伝統の継承と新たな創造によって、固有性と質を世界レベルに高める、とした。目標は、方向さえ間違っていなければ高ければ高い方が良い。

活動内容を、デザインに関する、①教育(学校、「楽塾」など教育の場にて)、②著作(依頼による執筆、自発的執筆)③講演(学校・企業・団体などからの依頼)④相談(商品開発、意匠権、デザイン教育について)⑤制作(自主的なデザインによる様々なものつくり)とし、主宰は私、実施日は2000.02.22と確定。場所は、長野県富士見高原の山荘とした。

これで5W1H(だれが、いつ、どこで、なにを、どのように、なぜ)が整った。塾是は当然ながら、「かたちはこころ」。行動規範は、「明るく、楽しく、前向きに」とする。こうして設立趣意書が出来上がった。

その看板、彼らが考えたのは、ヨーロッパの街でよく見かける、古い建物の入口際の外壁から、道に向かって突き出している鉄枠付きの看板のこと。鉄枠のなかの部分は石板を使い、文字の彫刻はイギリスの名人に頼む。「楽塾」の文字は私の直筆のものを送った。厚さ15ミリの石板は片面を日本文字、もう片面をローマ字に、両面とも筆記体とした。

結局、歓送会には間に合わず、その年の夏、仰々しい梱包の木箱が山荘に届けられた。時間のかかった理由は、石板がかなり立派なものに仕上がり、鉄枠をそれに相応しいものにするには、ドイツのマイスターに頼むしかないとのことで、時間が伸びただけではなく費用も思惑の2倍ほどに膨らんだ。

看板の大きさは、縦300ミリ横500ミリの楕円、鉄輪は15ミリほどの丸棒を加工。そのなかに一回り小さい鉄輪で囲こまれた石版が固定され、石板全体はŁ字型の鉄製の取り付けフレームに吊られ、Ł字型の一片をベランダの柱に固定した。

設立後、思いもよらないことが次々と起きた。立命館大学からの要請で客員教授となり、同時に、母校多摩美術大学の客員教授も受けることに。さらに次の年、多摩美術大学生産デザイン学科プロダクトデザイン専攻を与かることになる。6年間の立命館大学、その後を受けて東京理科大MOTで10年、さらには海外技術者支援機構(HIDA)で10年、多くの学生と関わってきた。

「楽塾」設立から16年が経つ。当初、標榜したことがどこまで達成できたのだろうか。「楽塾」を経験した留学生を含む学生たちや、ホンダの後輩をはじめ駆け込んできた若者たちは数しれず。講演は100回を超え、上梓した本は10冊にはなる。「楽塾」の設立趣意書は、60歳以降の私の生き方の指標となった。私のデザイン人生はまだまだ続く。そして「楽塾」の看板は、矍鑠として風雪に耐えている。