現在、「デザイン」という言葉はごく普通に使われているし、これが何のことかまったく分からないという人は、少ないのではないだろうか。が、「それじゃあ、デザインってなんだ」、と問われると、誰も明解には答えられない。
多くの人が、何となく「格好よいものをつくること」とか、「あるものを格好よく飾ること」などと感じているように思える。まさにその通りで間違いではないのだが、これらが答えの全てではない。
また、デザインにも色々なジャンルがあって、私が専門とするプロダクトデザイン(製品デザイン)の他にも、グラフィック・デザイン、テキスタイル・デザイン(染織デザイン)や建築デザインなどがあり、最近では環境デザインや情報デザインと呼ばれるものもある。
それらのデザインが目指すもの、そのためのやり方や考え方は千差万別である。それらに共通する概念を、私の専門であるプロダクトデザインを例にして話すと、これを「モノつくりに伴うデザイン」、という風に解釈してもらえれば、少しは分かり易くなるかと思う。
現代のデザインは、大量生産を前提としている。大量に生産することによって、その「モノ」は、少数の人の手に留まるのではなく多くの人々に行きわたり、無数の生活の場で活用されることになって、新しい生活スタイルが生み出されて行く。こうした大量生産は機械に依らなければ不可能であるから、デザインはやはり、産業革命以降に生まれた概念であると言えよう。
「デザインとは何か」と考えるとき、実際にはその対象となる「デザイン」そのものにいくつかの「場合」が存在している。たとえば、「経営とは」、「文学とは」、「料理とは」などについて論じ、その本質を明らかにしようとする場合と、それらが人々の、日常の暮らしのなかで、どのように運用されているかを明確にしようとする場合があるが、それと同様であろう。
「経営とは何か」、と懸命に考えること自体は経営することとは違うし、同様に、「デザインとは何か」と考えるのはデザインすることではない。私の経験からしても、デザインの現場において、「いったいデザインとは何だ」などと考えることはまずない。
読者のみなさんが、デザインの本質を考え論ずることは大いに結構である。というか、こうした研究を職業とするなら別だが、「デザインすること」を職業とするなら、その本質を探ることは仕事ではない。職場や家庭で「デザインって何だ」と考え続けていたら、「新しいアイディアをどんどん出せ」と上司や周り人から注意されるのが落ちである。
ただ職業として自分が選んだ道が、この世の中で果たしてどのような位置を占め、なぜそうなったのかを知っていること、あるいは知ろうと試みたことの有無は、それを仕事として行う場合に、非常に大きな差になって現れてくるものだと私は思っている。
1970年代、「2001年宇宙の旅」という映画が公開された。「人類の進化」、「文明の誕生」と「未来」を示唆した、壮大な内容のSF映画の傑作として有名だから、知っている人も多いだろう。原作者アーサー・C・クラークは、不思議な石板を、文明の転機を象徴するものとしてところどころに登場させている。
400万年ほど昔のアフリカ大陸、人類の祖先である猿人が出現してまもなくのこと、1個所の水飲み場をめぐって2つの猿人のグループが対立していた。力の弱いグループは、いつも通り水飲み場から彼らが追い払われたときに、逃げ遅れて捕まった猿人が、苦しまぎれに傍らにあった何やら大きな動物の骨をつかみ、相手をさんざんに打ちのめす。
いままで弱かったグループが骨を武器に使うことで、一挙に形勢を逆転させたのである。喜んだ猿人が骨を空中に放り投げ、それがクルクル回りながら、空高く舞い上がって航行中の宇宙船に姿を変える、というのが有名なファーストシーンだ。
太古の人間の祖先が初めて骨を手にし、その後、何万回も何億回もの繰り返しを経て道具を使うことを覚えてきた。結果、人間は、今のところ地球を支配している。それは「知恵」を使い、「道具」を使った結果にほかならない。
その、我々の身の回りで暮らしを支える道具たちに、今一度、目を向けてみたい。自分たちの生活を、いかに便利に有益に、そして潤いのあるものにしているかを。また、それらに関わることが、いかに楽しいかを知るところからデザイン入門としてもらいたい。