’80年代に入り、3代目「ホンダシビック」のデザインが始まろうとするころ、企業指針として「違いと差」というスローガンが打ち出された。「違い」も「差」もそれぞれに難しい。どちらもある「基準」に対してのものだから、その基準をどこ置くかになる。
当然それは「メジャー企業」、ならば日本ではT社、アメリカではGM社。これらに対して、どのくらいの「違い」と「差」を付けられるかだ。悔しいが客観的に見て、自分の立ち位置を、他を基準にして決めざるを得ない。
他とどのくらい違えるか、「間の取り方」を誤ると「間違い」となる。また、これらに差を付けるとなると、よほど狙いを定めた「ピンポイント」攻撃しかない。しかも、歴然とした差が要求される。さらに大事なことは、これらの「違い」や「差」が人の心を打つものでないと独りよがりになる。
この「違い」と「差」を、具体的な形にするのがデザイナーの仕事。何を己のコア・コンピータンスとするか、それを如何に効果的に表現するかを考えることから始まる。ここがしっかり出来ていないと、単なる見せ掛けに終わってしまう。
私は、企業内でのデザイン活動を通じ、デザインとは商品そのものであり、言いかえれば「企業の顔」だと考えている。人にたとえると、「顔に出る」ということ。体の調子が悪いとき心に悩みのあるときはすぐ顔に出る。
が、たとえ体のどこかが具合悪くても、志高く考え方がしっかりとし真直ぐ正面を向いて生きていれば、面構えもキリッとしてくる。もちろん、心身共に健全で情熱とロマンを持ち、高い目標に向かって努力している人の顔は、ほれぼれするほど色つやが良く活き活き輝いているものだ。デザインについても同様だ。
「自分の顔に責任を持て」とも言われる。ある年令になると、社会の中で自分が何のために生きているのかの存在意義、他との違いや差をはっきりとさせねばならない。「良い顔しているね」と言われるのは、こういうことが果たされたときであり、今風だと「アイデンティティがあるね」ということになる。
しかしこのように自信を持つことも大切だが、つい自惚れが出て、自分のことしか考えない我利我利亡者の顔になることもままある。そうなると誰も寄りつかなくなり、ますます焦りが出て貧相な顔になってしまう。
人は実力がつき、自信がついてきたときこそ他人の気持ちを思い、己をさしおいても、世のため人のために心を配るゆとりを備えることが肝要かと。こういう人の顔は見ているだけで気持ち良く心が安らぎ、いつもずっとそばにいて欲しいと思わせる「徳のある顔」だ。
こういう顔は一朝一夕に出来るものではない。デザインについても同じで、日々の精進なくしてはありえない。つけ焼き刃の厚化粧や派手な着飾りだけでは、すぐにメッキがはがれお里が知れてしまう。
個人や企業、地域や国、それぞれに体の大きさは違っても「顔」は大切である。「良い顔」、つまりは「良いデザイン」を創り出すには、まず企業そのものが健康でありたい。
その上で、企業の総合力、すなわち従業員の資質、技術力、生産力、販売力、管理能力、さらには、経営陣の決断力に至るまでのトータルパフォーマンスにより、世の中の求めるものを商品という「形」にし、それを通して企業の想いをお客様に伝えることだと考える。
デザインが、「企業のメッセージ」と言われるのはこのためである。従って、企業にとって従業員は全てデザイナーであり、社長はさしずめチーフデザイナーだ。家庭での家長と家族、こちらも同様なことが言える。
仮に、その商品のデザインが良くないものなら、それは世の中を不幸にする。デザインの最も基本的な役割は、モノを人の豊かな生活に結び付けることにある。が、現代のデザインは、生産・販売の効率を最大の目標とする産業社会のシステムに完全に組み入れられていて、大量生産される製品は必ずしも、生活の必要性によってつくられるとは限らない。
これらは人の欲望を必要以上に刺激して、生活本来の姿を見失わせる危険を常に含んでいる。このような危険を避けるためのデザインの進むべき方向は、生きた生活の現実を正しく捉えることにある。
目に見える形(顔)は、見えない心によってつくられる。デザイナーと企業は、真の意味での「良いデザイン」の商品を供給して、人々の生活を向上させるという社会的責任について、絶えず自覚せねばならない。