2. デザインにとって大切なものは?

2-5.デザインとコミュニケーション

私の経験から言うと、企業は自らの在りようを、デザインというものを通じて社会とコミュニケートしていく。デザインの役割は、社会や人々の欲求に対するメッセージを、製品や企業活動を介して伝えることだ。国家も町も家庭も、同様のことが言えよう。家庭を例にとると、家風が躾を育み、それが家柄として現れ、人の目に触れる。そして、触れ合いが始まる。

コミュニケーションには、共通の「場」が必要である。これは、場合の「場」や、立場の「場」、場違いの「場」などというときの「場」のことである。手で触れたり目で見たり来ない抽象的な概念と言ってもよい。

たとえば、友人どうしが集まって話を始めるとする。話といっても議論ではない。気の合った者どうしが、打ち解けて行なう雑談である。話が進んでいくと、何となくそれぞれの気持ちが分かったような感じがしてくる。

そうなると、友人どうしの一体感が生まれて、それぞれの相手が理解できるようになり、心と心のコミュニケーションが可能になる。

人間のコミュニケーションは、伝言のように、言葉を交わしてその意味を理解するだけのものではないはずである。言葉の意味を理解するだけなら、手紙でも電話でも十分だ。しかし、すべてが言葉では表しきれるものではない。それに、言葉によるコミュニケーションには、意図しない嘘や飾りが混じりがちとなる。

コミュニケーションの本質は互いを理解することであり、心と心が触れあう状態があってはじめて実現できるものだ。人間どうしが深く共感しあえるとき、そこには何らかの共通の「場」が出来ているはずだ。

これについて面白い例がある。アメリカの自動車と電話の普及率は、現在世界一だ。電話は、アメリカのグラハム・ベルという人が発明し、1875年、彼はベル電話会社を設立し独占的に事業を始めたが、なかなか普及しなかった。家庭や個人にとっては高価すぎたし、役所や会社にとっては、電信で十分に用が足りていたからだ。

後に、アメリカ各地に電話会社がたくさん出来て、競争が盛んになり、普及に弾みがつき始めた。この時期は、自動車の普及の始まりとほぼ同時期であった。電話さえあれば、わざわざ車で出かけて行き、人に会って話をする必要もない。当時の自動車会社の経営者は、自動車のライバルは鉄道ではなくて電話だ、と真剣に心配したそうだ。

が、その後のアメリカでの電話と自動車の普及は、ほぼ同じカーブを描くこととなる。電話とクルマとはそれぞれの役割が違うから、表面上の単純な比較は出来ないが、それぞれをコミュニケーションのための道具と捉えるなら、なかなか興味のある比較といえよう。

言葉のコミュニケーションだけで、世の中が成り立っていくことが出来るとしたら、これほどの自動車の普及はなかったはず。誰もが一度は経験することであろうが、恋人と電話で話しているとやっぱり逢いに行きたくなる。逢うために駅やバス停まで駆けていくのが日本で、アメリカの場合はこれがクルマだった、ということである。

「アメリカの自動車の普及は恋人達によってなされた」と言っても、あながち的外れではないだろう。いずれにしても、人間どうしのコミュニケーションに役立つ「場」をつくり出すことが、自動車が普及したひとつの要因であったというのは間違いない。

モノのつくり手である企業と、受け手である社会や人々とのコミュニケーションにも、この「場」は不可欠である。製品を方向付けることに加えて、デザインのいま一つの役割は、この「共通の場」を演出することであろう。

デザインが「物」だけに関わっていた時代はすでに終わり、これからは「物」を越えて、「場つくり」を含めた「物事」をつくり出すデザインが、ますます必要となってくる。

人はモノの形を通して、つくり手の心とコミュニケートしている。ドアの取手は、「ここを握れ」と人に語りかけるし、自動車は「乗って走れ」と語りかける。また、人がモノに愛着を覚えたり嫌悪を感じたりするのは、人間の側からのモノへの語りかけである。

作者の心がこもっていないモノが、人や社会との間に共通の「場」をつくり出すことは決してない。「場」をつくり出さないモノと人とは、決してコミュニケート出来ない。それこそ、「場違い」、「似合わない」ということである。さて、あなたはどんな、「家庭」という「場」をデザインするのだろうか。