3. あなたもデザイナーに!?

3-3.なり切る

1970年代中盤、初代「ホンダアコード4ドアセダン」のデザインを進めているところへ、不意に、本田宗一郎さんが見えた。モデルを見るなり、「4ドアセダンのお客さんはな、4ドアハッチバックのと連中とは全然違うんだぞ。このお客さんには君、大きく見えたり、高そうに見えることが大事なんだ。形はもっと四角く、メッキモールはもっと太く、もっと多くしないと駄目だ」と強い口調で言われた。

アコード3ドアは、「大人の雰囲気を持ったスポーティ・ハッチバック」として発売。市場の評判もすこぶる良く、それに気を良くしての派生機種の開発であった。だからチームのメンバーたちは、3ドアのもつスポーティなフロント廻りをそのまま使い、そのイメージを踏襲したいと考えていたところだった。

私は30代半ば、やっと家庭を持ち、子供もでき、狭いながらも楽しい都心マンション暮らし、シビックの次に乗る車はこれだと決めていた。が、言われるような四角くてメッキが一杯ついている車など、どこかの会社に任しておけばよい、と、私だけでなくチームの誰もがそう思っていた。そんな訳でついつい形だけの対応になり、そんな心根は、すぐ本田さんに見破られてしまった。

たちまち、「君たちは、お客さんの本音がちっとも分かっていない。自分の立場でしかものを考えていない」とかぶせられた。もともとやりたくないのだから腰が入らない。何度向かっていっても、本田さんの声は大きくなるばかり。来る日も来る日も同じようなやり取りが続き、ついには誰も寄りつかなくなった。

たった一人残った私は、たまりかねて「これ以上は無理です。私はそんな高級な生活をしていませんから」と開き直ると、「バカ野郎!じゃあ何か、信長や秀吉の鎧甲や陣羽織は誰がつくったんじゃ」と一喝。グーの音も出なかった。たしかに、自分の置かれているレベルからでしか、ものを見たり考えたりしていなかったようだ。

それからと言うもの、その頃の自分の生活からは程遠い、高級なもの人の心を打つ優れたものに、どうしたら出会えるかを真剣に考えるようになった。そして辿り着いたのが、そうしたものが見られるという国立博物館や近在の美術館。それらを訪ね、名のある工芸品や調度品などを貪るように見て廻わった。

そしていつしか、室町文化に日本の「美」の原点があるのではと思うようになり、心を惹かれたのが能役者・能作者の世阿弥のこと。「高級」を求め、とことん悩んでの出会いであった。

彼が「風姿華伝」を書き上げたのは、この時期の私とほぼ同じ年頃のこと。手に取って、読んでみて、「凄い」としか言いようがなかった。彼は当時、身分が低いとされた芸人の出でありながら、将軍の寵愛を受け、それに奢れることなく貴族階級の「雅」の神髄を求め、「幽玄」という独自の「美」を極めたとされている。

彼のそうした創造のエネルギーは、一体どこから生まれたのだろうかと、私はその秘密を探った。著作を読み足跡を辿って私なりに理解したことは、結局、悩みながらも想いを高くして、世のため人のため、倦まず弛まず創意工夫を重ねること以外に手立ての無い、ということであった。

世阿弥の残した言葉の中に、有名な「初心、忘れるべからず」がある。これは、生まれながらの美しい容貌としなやかな肢体で、足利将軍の寵愛を受けながら役者として育ったものの、大人になって体つきが変わり声変わりもして、手のひらを返したように評判が落ちてしまった、そんな、どん底のころを思い起こして生まれた言葉であるいう。

そこで彼は、生まれ持った天性のものだけでやってきたことを反省し、悩んだ末に、どんな役でも演じ切る父・観阿弥の偉大さに気づき、あらためて父を手本に本格的な修行を始めたという。デザインの仕事も役者も同じで、対象がどんな年齢、どんな仕事や境遇の人であっても、その人の気持ちになり切って仕事をする、あるいは演じることの大切さを教わった。

世阿弥は、「忘れるべからず」としてとことん悩んだ。悩むのはつらい。逃げたくなる。が、逃げている限り、その悩みはいつまでつきまとう。どこまでもストレスが残ることになる。逆に、そのときはつらくとも悩みぬいて解決すれば、達成感や開放感が生まれる。結果としてストレスは小さくなる。なんと言っても、自信をもって次に進めるようになる。デザイナーは常に、「明るく、楽しく、前向き」でありたいものだ。