5. デザインであなたが変わる!?

5-2.デザインと方向付け

物ごとの「方向付け」をするのに、最も重要なのはデザインである、というと、不思議がられる人がいるかもしれない。「デザイン」と「方向付け」がどのように関連しているのか。

先に、「何をどのようにするかを考える」が、デザインの語源「Designare」の意味だと述べた。いわばデザインをするには、「何のために何をしたいのか」を最初に決めるという作業が求められる。

これはすなわち、自分の「意思」を確かめることでもある。その上で、確固たる意思を何らかの方法で表明する、いわゆる「意表」である。言葉であったり文章だったり、絵であったり数値だったりと。

こうしてはじめて、どの方向に意思が向いているかが見える形となる。デザインの日本語訳「意匠」は、これらのプロセスの上で成り立つものだ。「意(心)」をもって「匠(技)」を使う、明治の先人はなんと素晴らしい訳語を見つけたものかと感じ入っている。

さて日ごろ、誰もがよく使っている「デザイン」という言葉、日常に置き換えて考えてみたい。私事で恐縮だが先だって、家内が私の誕生日にネクタイをプレゼントすると言うので一緒にデパートにでかけた。あれこれ選んだすえに、「これが良い」と私が言うと、彼女は「それはダメ」と言う。なぜかと聞くと、「あなたに似合わない」と言うのである。

これには参ってしまって、「俺は何十年もデザインを仕事にしてきたんだ」と言うと、「私は、あなたに似合うデザインがどんなものかを、長いこと考えてきました」と言うのだ。デザインを「似合う」という意味合いで使っているようだ。

そこで私は、物と人のコミュニケーションがうまく行ったときに、似合うということになるんだなと妙に納得させられ、家内の選んだものを有り難くいただいたようだ。もし、デザインが色や形というだけのものなら、ネクタイを選ぶのは、プロのデザイナーである私の方が家内よりも上手なはず。

が、夫のネクタイを選ぶ妻には、夫が「格好良く見えるように」とか「恥ずかしい思いをしないように」との、「こうあって欲しい」という気持ちが働いていたようだ。妻による夫の「方向付け」である。私に対して家内が言った「デザイン」には、意図せずともこのことが含まれていたわけで、私が納得させられたのはまさしくそこにあった。

さて、「方向づけ」をするには知恵が要る。我々は先人がつくりあげた学問を、先生や教科書によって「知識」というかたちで学ぶ。言うならば、すでに掛けられている「学問の梯子」を途中から登り始めるということ。定理や法則はそのまま用いればよい。一方、職人やデザイナー、画家や演奏家、語学もそうだが、こうした技術は「体で覚える」しかない。

だから目標とする名人の技は、ゼロからの修練を重ねなければ身につかない。中には生まれながら才能に恵まれた人もいるが、普通はそうではない。「模倣」するにしろ「伝授」されるにしろ、目標に向かって掛けられた「技術の梯子」は一番下から登らねばならない。

さらに「心を込める」にあたっては、どんな「心」をどのように込めるのか。他人の心は見えないし自分の心を見せることも出来ない。つまり「真似する」ことも「教える」ことも出来ない。ということで結局、「心の梯子」は自分で自分の目標に向かって掛け、こちらも一番下から登らなければならない。

同じ「デザイン」でも、一つ一つを手づくりで仕上げる職人の仕事と、1ロット何十万という単位の大量生産に関わるデザインとは、一見全く違う世界のことのように感じられるが、どちらもその根本は同じ。もちろん、日々の暮らしを心豊かにしようと努力している人たちにも同じことが言える。

デザインの「知識」や「技術」は、学校で学んだり先輩から教わったりするなど、繰り返し練習すれば身に付けることができる。ところがいくら本を読んでも先生に教わっても、身につかないことはたくさんある、というより、こういうことの方がはるかに多い。これが長年デザインに関わってきた私の実感である。

どんな仕事でも、自分の頭で考え心を動かさなければよい結果は残せない。これが「知恵」というものである。そしてこの知恵は、こうしたい、こうしてあげたいという[想い]によって引き出される。つまり「想い」は、知識の詰った蔵の扉を開ける鍵であり、知識が外に飛び出たとき、たちまちそれが知恵に変わるのだと私は思っている。