「美」を定義するのはむつかしい。ソクラテスは、美や徳について問われたとき、「人間は美しい心、徳とする精神のあり方を、もともと持って生まれて来ている」と答えた。批評家・小林秀雄は「考えるヒント」のなかで、「花が美しいのではない。人が見て美しいと思うから、花は美しいのだ」と述べている。美は、人の心の作用によるもの、ということだ。
私の学んだ多摩美術大学は、芸術大学にあるような歌舞音曲の分野をもたない。とはいえ、広辞苑によると、芸術であれ美術であれ「美的価値の創造」が目的とある。デザイン領域はというと、わが大学では絵画や彫刻のファインアート領域とともに美術学部に属す。従ってデザインも、「美の追求」が第一目的と言っていいだろう。
ノーベル賞経済学者・サイモン・A・ハーバートによれば、デザインは、いかに物事が存在すべきか、どのようにすれば人工物が目標を達成するか、ということの考案に関わりを持つとされる。これらを考えるには、「人工的な物体と現象に関する知識の体系」が必要であり、その意味でデザインは「人工科学(artificial science)」である、そしてまた人工科学であるデザインは、企業が人々のニーズに基づいて製品やサービスをつくり出す際に、それを最ものぞましいかたちで提供することや、効率良く生産すること、さらにはそれらに美的感覚を持たせることに用いられる。デザインの役割は、美と機能のバランスを図りつつ、問題を解決していくことにある、としている。
シカゴ派の代表的な建築家・ルイス・サリヴァンは、「形態は機能にしたがう(form follows function)」と言い、代々木第一体育館や都庁舎を手掛けた建築家・丹下健三は、「美しいもののみ機能的である」と言っている。形態はスタイル(style)に、機能は工学技術(engineering)に関連するものであり、これら2つをつないで「合い具合(fit)」を打ち出すのがデザインの役割となる。このデザインの側面は、製品とは審美さと使いやすさとを総合したところで形付けられる、ということを示すものであろう。機能美という概念だ。
清少納言の「枕草子」に、「小さきものは美しき」とある。この「美しき」は「可愛い」と同義語。日本人は古来より、「小さいもの」「美しいもの」「可愛いもの」を同じ意味合いとして扱ってきた。
「いまの若者は、なんでもかんでも可愛いと言って片付ける。まったくボキャブラリーが…」と大人どもは嘆くが、存外彼らは、日本人らしい美意識のDNAをしっかり受け継いでいるようだ。
私のデザインした初代シビックを見て、「かわいい、かわいい」と言ってくれたのも、「小さくて、可愛いくて、美しい」と感じてくれたからだろうと、手前勝手に喜んでいる。小さいものを美しいとした先人のお陰だ。
2005年のある日、私の授業で、学生たちとともに「美しい」の定義付けを試みた。そこでまず、彼らが日常よく使う「美しい」「綺麗」「可愛い」の違いについて議論をしてもらった。3つの言葉に多少の違いは認めるものの、なかなか、明確にその差異を定義できない。
そこで「美しい人」「綺麗な人」「可愛い人」を、誰かに例えて名前を挙げてみることにした。結果、乱暴なまとめ方だが、美しい人」は自分のお母さん、女優の吉永小百合、実は、オードリー・ヘプバーンも僅差で入った。「綺麗な人」は自分の彼女、女優の小雪。可愛い人は赤ちゃん、女優の上戸 彩となる。けっこう彼ら、当を得ていると思った。
「美」は羊が大きいと書く。多い、という意味でもある。中国人にとって羊は美味で、大きくて多いと心が満たされたのであろう。「綺麗」は布(きれ)から来ている。糸が織られ綾をなし人の目を楽しませる。「可愛い」は愛すべき人のことで、本来はお年寄りを指し、そのうち幼児を指すようになり、同様に感じる花や動物にも及ぶようになる。
「美しい」をつくるには、時間と努力が必要ということなのだ。ここでも、美は、目と心の満足感に関わっていることが見て取れる。“ここちよい“という、知覚、感覚、情感の世界だとも言える。「快」は、個人的、偶然的、主観的とされ、「美」は、普遍的、必然的、客観的というのも納得のいくところだ。 つまるところ美とは、古今東西、老若男女、誰が見ても好もしく感じるもの、ということになろう。