美しくありたい。そうなった自分を想像してみる。こうした「想像力」を培うことで「創造力」が生れる、と私は考えている。では、如何にして「想像力」を培えばよいのだろうか。私自身が、デザインの仕事を通じて辿り着いた考え方や、やり方について述べてみたい。
われわれ人間の祖先は、立ち上がって歩く能力を身に付けた。脳の発達により重くなった頭は、背骨を支柱にして支えられるようになる。2足歩行は、4つ足歩行に比べ大きく重い脳を支え易く、その上、立ち上がることによって両手が自由に使えるという利点も生まれた。
猿人の脳の重さは350gほどである。現代人の脳はその4倍の1.5kgほどで、その大きく重くなった脳の3分の1は手や指の動きを制御するのに用いられるという。手や指を使うことによって脳が発達したのか、あるいはその逆なのか、いずれにせよ、手の動きと脳の関係が密接であるのは間違いない。
さらに言えば、立つことによって視点が上がり、遠くを見ることができるようになった。強力な牙も爪もない人間にとって、敵から身を守るために遠くを見通し、その接近を早めに知ることは、死活に関わる問題であったに違いない。
「先を読む」能力、つまり「予測する」「計画する」「企画する」といった人間だけがもつ知的能力も、立ち上がることで得た大きく重い脳によってもたらされたと言ってよい。目で見たものを脳で記憶し、その情報を処理して手に指令する。またその逆もある。目と手が脳を介して情報交換を繰り返すことにより、脳はますます鍛えられるわけだ。
「デザイン」という作業は、手や指を自在に動かし絵筆を操り、脳に描いたイメージ(想像)を目に見えるようにするところから始まる。これを毎日行っていると頭がよくなるのは当然のことだ。
我々は、先人がつくりあげた学問を先生や教科書によって「知識」というかたちで学ぶ。言うならば、すでに掛けられている「学問の梯子」を途中から登り始めるということになる。定理や法則はそのまま用いればよい。一方、職人やデザイナー、画家や演奏家、語学もそうだが、こうした技術は「体で覚える」しかない。
だから、目標とする名人の技は、ゼロからの修練を重ねなければ身につかない。なかには、生まれながら才能に恵まれた人もいるが、普通はそうではない。「模倣」するにしろ「伝授」されるにしろ、目標に向かって掛けられた「技術の梯子」は、一番下から登らねばならないということだ。
さらに「心を込める」にあたっては、どんな「心」をどのように込めるのか。他人の心は見えないし、自分の心を見せることも出来ない。つまり、「真似する」ことも「教える」ことも出来ないということで、結局「心の梯子」は自分で自分の目標に向かって掛け、一番下から登らなければならない。
デザインの「知識」や「技術」は、学校で学んだり先輩から教わったりするなど、繰り返し練習すれば身に付けることができる。ところが、いくら本を読んでも先生に教わっても、身につかないことはたくさんある、というより、こういうことの方がはるかに多い。
どんな仕事でも、自分の頭で考え心を動かさなければよい結果は残せない。これが「知恵」というものである。そしてこの知恵は、こうしたい、こうしてあげたいという「想い」によって引き出される。つまり「想い」は、知識の詰った蔵の扉を開ける鍵であり、知識が外に飛び出たとき、たちまちそれが知恵に変わるのだ。
知恵が良いデザインを生む。この豊穣の時代に、こうしたい、こうしてあげたいという「想い」をどのようにして抱くか。醸成するか。こうしたことを可能にするためには、心を動かし揺さぶる「豊かで刺激的な創造の場づくり」が必要となる。
「心」は、「知、情、意」で表される。「知」とは何かに出会い、「情」とはそれによって心を動かし、「意」とは心に決めること。この知、情、意の心の動きこそが「感動」であり、この「動き」を、たくさん経験した人ほど心が豊かになると言われる。自らが何事かを求める心は、常に創造的であり「物事」に対し敏感に感動する。
本田さんからは、モノ(商品)をつくるときは、「お客さんと同じ気持ちになれ」と教わった。このことはとりもなおさず、「お客さんと一心同体になれ」ということ。観阿弥が「一座建立(いちざこんりゅう)」と表現している、演者と観客の息があった様をあらためて思う。