1. デザインって、何?

1-5. デザインと芸術

若いころ、初対面の人との会話で「仕事は何ですか」と聞かれたとき、「デザイナーです」と答えると、「ああ、芸術家なんですね」と言われることがしばしばあった。その場で訂正したことはないが、私は自分が芸術家だと思ったことはないし、「デザインが芸術である」と思ったこともない。

30歳を少し過ぎたころ、ちょうど初代のシビックが成功し我ながら有頂天になっていたそんなとき、本田宗一郎さんに「芸術家にゃ、新しいデザインなんかできゃせんよ」と睨まれた。

この少し前までホンダの4輪部門は低迷を続け、経営陣は4輪から撤退して2輪に主体を移そうとまでしていた。シビックの成功は、まさに9回裏の逆転満塁ホームランのようなもので、会社中が浮かれていたし、もちろんデザイン担当の私も得意満面だった。そんなときの本田さんの一言、「冷水を頭から・・・」の喩え通りであった。

 初代シビックは、無駄な飾りを捨て実用に徹したシンプルなデザインが評価され、多くの人々、ことに若い人たちに支持されたのだが、その外観はといえば「ずんぐりむっくり」で、お世辞にもスタイリッシュだとは言えなかった。

若い私は、次の車はなんとしても流麗なスタイルにしたいと、気分のおもむくままに「カッコよい車」のスケッチを描きまくっていた。

そこに本田さんの一言である。本田さんから見てその頃の私は、鼻持ちならない芸術家気取りの若造に見えたに違いない。本田さんは優れた技術者であったが、稀有な才能をもつデザイナーでもあったと私は思っている。特別にデザインを学んだわけではないと聞くが、世の中の動きや人々の好みなどについて、天才的な閃きを働かせることが出来た方で、しかも企業の発展にとって、デザインがいかに重要かを感じとっていた経営者だった。

私は、芸術家にでもデザインはできると思うし、その反対でも可能であると思う。問題は、「芸術」「デザイン」のそれぞれに徹しようとすれば、つくる対象は同じようでも、「やり方」「考え方」が全く異なるということだ。だから「芸術家にデザインなんか出来やしないよ」というのは、芸術とデザインの違いについて、本田さん流に私を諫めたものであったと思っている。

 「芸術」と「デザイン」は全く違うものなのだが、それでもデザインは絵を描いたり立体をつくったりするから、「美術」にかなり近いものであるのは確かだ。その違いについて大雑把にいうと、「ひとつ」つくるか「たくさん」つくるかの違いといえる。これでは「なんといいかげんな説明であろうか」と呆れられてしまうかも知れないが、間違いではない。

コップを例にして説明しよう。芸術家の作品としてのコップと工業製品としてのコップは、「モノ」としては全く同じ場合があり得る。またその製作に懸命に打ち込んだという点で、芸術家もデザイナーも変わりはない。が、芸術家は作品であるコップをつくること自体よりも、それを通じて何事かを表現することを目的としている。だからこの場合、作品が「コップ」でなければならない必然性はそれほど高くはない。目的が達成出来れば「茶碗」であってもかまわない。

デザインの場合も、「思い入れ」が強いデザイナーは、コップになんとか自分の思いを表そうとすることがないとは言えない。そういうデザイナーがいたって一向に構わないのだが、途中で「自分の想いを表すには、コップより茶碗の方が都合よい」に変わってしまうと「デザイン」にはならない。

「自分の想い」を優先するのは困るのである。「茶碗」なら、「コップ」の代わりにならないこともないからまだしも、「箸」になってしまうと話にならない。デザインには、目的とする「モノ」の持つ「本来の機能」が重要であるということだ。

芸術作品はそれと作家との関係が全てであり、作品と作家だけで完結するものである。そんな訳で場合によっては、絵が売れなかったり演奏会に人が来なかったりして、芸術家の生活が成り立たなくなるわけであるのだが、それと「作品」の芸術的価値とは無関係である。

それに、生きている時は誰にも認められなかった芸術家は山ほどいただろうし、今でもたくさんいるに違いない。が、デザインされた製品は、その時代の、世のため人のために役立たなければならない。よい「モノ」として、世の中の人々に認められ使われなければ意味がないのである。本田さんの一言は、そこにあったのかもしれない。