「そのシャツ、センスいいね」、「ありがとう」というような会話によく出会う。この会話、よくよく考えると不思議な感じがする。シャツのセンスを褒められたのに、当の本人が礼を言うのも少しおかしい感じがする。
私が小さいころ、父親が呉服屋を営んでいて、「信弥、お客さんにな 、『ええべべ(きもの)着てまんな』って褒めてあげたら、『おおきに』いう客は、ええ客やないねんで」、「ええ客はな、『着手がええよってに』って言うもんや」、とよく聞かされたものだ。そのころは、どういうことかよく分からなかったが。
長じて知ったことだが、来店客にお愛想で着物を褒めたとき、簡単に喜ぶような客は上客ではなく、着ている人が良いからだと切り返すくらいの客がいい客で、そんな客は大事にしたほうが良い、という意味だったらしい。
シャツの話に戻る。褒められたシャツのセンスとは何だろう。辞書では、センス(sense)とは「感覚」とある。シャツが感覚を持っているわけではない。じゃあ、誰が持っているのか。考えられるのは、会話に登場する二人。が、彼、あるいは彼女らが、センスなるものを創り出したわけでもない。とすると、シャツのセンスを創り出したのは誰か、ということになる。このシャツの色や形、風合いや着心地などを考え出した人、デザイナーということになるわけだ。
デザイナーは感覚を研ぎ澄ませ、時代を読み、TPO(時・場・場合)を考え、こんな人にぜひ着てもらいたいな、などと考えを巡らせながら新しいシャツを産み出す。それを見つけ出し、自分に似合っているかを確かめ、手に入れて上手に着こなす。で、それを見た友達の、「そのシャツ、センスいいね」に繋がるというわけだ。遠い日にわが父が言った「着手がええよってに」、にも通じる。
ここで、創る人、使う人、評価する人、この3者のセンス(感覚)レベルが問われることになる。人間にとって感覚をつかさどるのが、5感といわれる眼・耳・鼻・舌・身で、眼は視覚、耳は聴覚、鼻は嗅覚、舌は味覚、身は触覚を担う。この感覚はそれぞれに感知器(センサー)を持ち、そこから外界のさまざまな情報を得ることになる。
この感知器が鈍るとセンスが悪いといされる。山岳修験者が険しい山を登りながら口にする「六根清浄」は、この6つの感覚の根元を磨くという意味を持つ。意は心のことで、5感から得た情報で判断し心を決める、いわゆる直覚である。第6感というのはここからきている。逆に言うと第6感の働く人は、5感の感度が良いということで、感性の高い人、センスの良い人と言われるのだ。
ひとつ、本田宗一郎さんから教わったエピソードをお話ししよう。あるとき、「君たち、休みの日には銀座のデパートにでも行って、一番高いワイシャツを見てこい」、と言って帰られた。本田さんは白い作業着がよく似合う人。が、ときどき身に着けてこられるカルティエの時計、ルイ・ヴィトン のポーチ、エルメスのネクタイなど、悔しいほどよく似合う。が、ワイシャツについてはあまり気に留めていなかった。みんな同じようなものだと思っていたからだ。
当時、我々世代が買うワイシャツはせいぜい1,000円程度のものだった。デパートには何んと、10,000円もするワイシャツが並んでいた。触ることはできなかったが、確かに見た目にも生地は良さそうだし、縫い目もしっかりしている。帰って本田さんに、「10,000円のものがありました」と報告。
「“いいもの”だったか」「いいものでしたが、あんな高いもの、私は買いません」「なら、君がいいと思うものを買ってこい」というやり取りがあって、私が、これぞと思う3,000円位のものを何着か買って並べて見せた。「これは値段相応のものだ」と一瞥された。悔しさを胸に、高級デパートの10,000円のものに負けない“いいもの”を1,000円で買ってきてやろうじゃないかと、何日もかけて東京中を駆けずり回った。
ついに、デパートで見た10,000円のワイシャツに近いものを3,000円ほどで手に入れた。さすがに1,000円では買えなかったが、高いものは「いいもの」だ、には一理あるなと実感した。こうした経験を通じて、良いものを見る目を養うことができた。何が“いいもの”なのか分からないときは高価なものを見る、誰もが“いいもの“と認めているものを見る、という習慣を身につけることができた。