私が生まれた紀州・紀の国・和歌山は、「木の国」と言われるくらい山また山の県である。山というと山脈のことで、独立した山というのを知らないまま育った。小さいころから山の絵を描くときは必ず、二つか三つあるいはそれ以上の山と、その重なった頂きの間から昇るお日さまを描くものと決まっていた。
これらの山を描くときは、となりの奈良県にある三輪山の姿のように、丸みのあるなだらかな“への字型”であった。それに、私の住む町から見える山々は、ほとんどが1000メートルに満たない、自分たち子どもにも登れそうな、親しみのある優しい感じの山たちだった。
富士山を知ったのは小学3年生のとき、と言っても絵や写真からであるが、頂上は必ず三つ割れで雪がかぶっていて、シルエットは左右対称の八の字型、もちろんたった一つの山を画面いっぱいにと、クラスの誰が描いても同じ画角だった。そして実際に富士山の姿を見たのは、中学校の修学旅行の東京行の車窓からである。
「富士山だあ!」と誰かが叫んだので、あわてて窓から外を覗いたが目線の先にはそれがなかった。そして、想像していたより遥かに高いところに富士山のてっぺんがあった。正直、その大きさには腰を抜かさんばかりに驚いた。しばらくして、なぜか涙が出て止まらなかったのを今も覚えている。子供心に、神々しく思ったのだろうか。
日本には、数百もの富士と名のつく山があるそうだ。有名なところで言うと、北は北海道の蝦夷富士、羊蹄山である。福島の磐梯山も会津富士の名で親しまれている。中国地方では大山のことを伯耆富士と。本州南端の鹿児島には、薩摩富士と呼ばれる開聞山がある。いずれも、おらが国の富士山である。
富士山が、神の山として崇められるようになったのは平安時代からだと言われている。万葉集や小倉百人一首にも、天皇や貴族の詠んだ富士山の歌が数多くあるのは周知のとおり。日本の神聖な山は、長いあいだ女人禁制であった。そんな中で江戸時代の終りのころ、決死の覚悟で頂上まで登った女性がいる。その名も高山たつこ。
富士塚というのもある。江戸時代、富士信仰による富士講の人たちが、富士山を模して築いた塚で、江戸やその近隣に数多くできた。富士山の溶岩を積み上げたものや(現在は自然保護法で禁じられている)、すでに在る丘などを利用したものが多い。富士山をこよなく愛した高田籐四郎(日行)が江戸の高田に建てたものが最古とされ、高田富士と呼ばれている。富士山は庶民のものになった。
まだある。アメリカのワシントン州にあるマントレーニア山、カルフォルニア州に続いてこの地に移民した日本人が故郷を懐かしみ、この山をタコマ富士と名付けたそうだ。現役時代、仕事の合間を見つけて見に行った。感動とともに、さもありなんと納得の姿だった。
明治のはじめ、富士山に初めて登頂した外国人がいた。イギリス初代公使ラザフォード・オールコック。富士山の美しさと日本人(特に東京市民)の熱心な富士信仰に興味を持ち、法を逆手にとって決行した。登山は難渋を極めたが、同行した日本人と苦難を共にするなかで、日本人の自然や動物に接する態度や他人に対する分け隔てない親切心に感動し、日本贔屓、富士山贔屓が極まり、英国をはじめヨーロッパの国々に、そうした彼の素直な気持ちを伝えたと言われている。
これら諸々のことが重なり、古今東西、貴賎を問わず、富士は様々な思いを抱きながら眺める、登る、そして拝む対象となった。そして2013年、世界文化遺産となったことは日本人としてまことに喜ばしいことだ。自然遺産より文化遺産の方がふさわしいと私は思っていた。
日本人の誰もが、太古より、美しいと思ってきた山である。そう思ってきたからこそ美しいのである。「思う」というのは心のなせることで、「心」すなわち「知・情・意」である。富士山を知り、心が動き、美しいと心に決めたのである。
明治の先人が、Designに「意匠」という字を当てたことはすでに述べた。「Design」の語源の「Designare」は、何を、どのようにするかを「考える」行為、ということも。日本人が自然の中に聳える山に富士と名付け、日本一美しい山として神々しく思い、長い時間をかけてデザインしてきたのだ。だからこそ自然遺産ではなく文化遺産なのだと、そして、富士山を美しいと思うところに、日本人の美意識の原点があるように思えた。