8. 素晴らしき哉“デザイン的人生”

8-3.明るく、楽しく、前向きに

2001年、多摩美術大学生産学科プロダクト専攻の科長に就任、すぐに科内の空気が気になりだした。非常勤のころは気づかなかった違和感。ほとんどの先生が、自分の意見を積極的に発言しようとしない。ひと言でいえば、暗かった。

大学の理念は、「自由と意力」。誰もが自由を謳歌でき、意力に満ちるという校風。これは、36年間を過ごしたホンダの企業風土にきわめて近い。あらためて大学の理念を考え、勇気を得た。明るく、楽しく、前向きにやれば道はきっと拓けるという確信である。

1991年にホンダの4輪企画室が発足し、私は室長を拝命した。そしてバブル経済の崩壊。日本の自動車市場でも熾烈な「パイ」の奪い合いがはじまり、ホンダの人気は落ちる一方だった。

4輪企画室は、商品、営業、生産、品質、コスト・収益の5人(役員クラス)が企画メンバーとなり、4人のRAD(機種開発統括責任者)、それに営業、生産、開発をはじめ、管理、経理、情報のスペシャリスト10人ほどで構成された。その他、現場に密着したS(営業)・E(生産)・D(開発)の各企画室が傘下にあった。

こう説明するとものすごい組織のようだが、私を除く企画メンバーはみな現場の長を兼任し、週一回の会議に集まるのがやっとの状態。そんなわけでS・E・D各企画室は、ついつい現場の仕事に引っ張りまわされる。

なにより困るのは、4輪企画室が自ら何も生み出せない立場にあること。4輪企画室は、そもそも各部門から提案される計画(中期、短期)を束ね、最善の商品戦略を立案するのが役割。ところが、やることなすこと自己完結のできない虚しさが常に残る。現場からは、「自分たちは手を汚さないで、格好のいいことばかり言いやがって」とやっかみの声もあがる。

現場と兼任の人たちはまだいいが、4輪企画室の専任スタッフは、事あるごとに「現場に帰りたい」と嘆いた。私自身がそうなのだから、さもありなんという気がした。思案の末、みんなを集めてこんな話をした。

みんなが大変なのは承知している。ともかく私の考えを聞いてほしい。4輪企画室は、機能別では営業・生産・開発・品質・調達、地域別では日・米・欧・アジアという何叉路もある立体交差のど真ん中にいる。現場は「今」に専念できるが、ここでは「先」も考える。そのためには「前」を知ることも必要だから、現在・過去・未来という広い守備範囲になるわけだ。これらの情報ルートによる迅速な判断と交通整理、そこから読みとる未来のあり方への提言が任務。いわば、交差点のお巡りさんだ。一生懸命にやっても、周りからはお前がいるから混むんだとか、事故が起こるんだと言われる。だからと言って、逃げ出すわけにはいかない。

ホンダのなかで、4輪企画室は「蕎麦のつなぎ」みたいな存在。蕎麦も、新しいうちはつなぎを使わない。古くなると必要になる。これは組織も同じこと、蕎麦を食べるときに「このつなぎは旨いね」という人はいない。それが裏方仕事の宿命であり、その裏方が暗いと舞台に立つ役者たちも暗くなる、と。

そのうえで私は、「明るく、楽しく、前向きに」と紙に書いて4輪企画室の壁に貼った。メンバーからは、「そんな小学校みたいな標語は…」と文句が出たが、そのままにした。

それから3年間、国内の販売台数は落ちっぱなし、どん底から這い上がるのに3年、6年で復活を果たした。4輪企画室の貢献は小さくなかった。メンバーの一人から、こんなことを言われた。「あの標語は効きましたよ。初めは自分たちの気分に合わないと呆れましたが、毎日見ているとだんだんと気分が変わってくる。言葉というのは不思議なものですね」

イケイケドンドンの時代に、景気のいい言葉を吐くのはたやすい。問われるのは、全体の気分が落ち込んだときに同じことができるかだ。その場の空気を読むだけでなく、きちんと読んだうえで思いきって破る。マイナスからプラスへ、ネガティブからポジティブへと転じる、デザイナー魂はそういうものだと思っている。

プロダクト専攻の研究室にも、自筆の「明るく、楽しく、前向きに」の標語を掲げた。科の5ヶ年計画の行動規範として威力を発揮。6年間で、倍率をそのままに、定員倍増の認可を文科省から受けることができた。

我が家も同様に、家内も子供たちも、何があっても、どんな場面でも、呪文を唱えるように「明るく、楽しく、前向きに」と。