2. デザインにとって大切なものは?

2-4.普遍性・先進性・奉仕性

私は、30代後半の苦しい創造活動のなかで、「デザインすること」、「デザインされたモノ」、それぞれには3つの要素が備わっていなければならない、との考えに行き着いた。「普遍性」、「先進性」、「奉仕性」である。

「普遍性」とは、長い年月で淘汰され、それでも変わらないで残っている良いもののことで、世界中のどんな人が見ても評価が変わらないものをいう。万人に好かれる姿を追求している、ということである。

「先進性」とは、人より進んでいるのはもちろんのこと、それも大事だが、時間が経っても、その新鮮味が失われることのないことを指す。すなわち、そのモノの存在する時代に適合し、かつ未来を予感させることだ。

「奉仕性」とは、不変性と先進性をうまく織り合わせることで、布に例えると、「経糸(たていと)」は普遍性や人間社会、「緯糸(よこいと)」は先進性や時代の動きと言える。経糸と緯糸を、強くもなく弱くもなく、きちっと強さを加減し、時代時代に合った柄に織り上げるのが「奉仕性」で、過ぎても足りなくてもいけない「心をこめる」という大事な作業だと考えている。

もう少し具体的に見てみよう。「普遍性」とは、「モノ」がそのものであるための普遍的特性のことと言える。つまり、「コップ」はコップのようでなければならないし、「冷蔵庫」は冷蔵庫のようでなければならない。この「~のようでなければ」の部分が重要である。誰かが冷蔵庫を指さして、「これはコップだ」と言っても、誰も相手にしない。彼らが、「コップ」を知らない人達ならともかく、それを知っていたなら、初めて見る物体(冷蔵庫)が「コップ」ではないことだけはわかる。

その特徴から、「冷蔵庫」は明らかに「コップ」ではないと感じるからだ。つまり、「コップ」をよく知っている人も、見たことがあるといった程度の人であっても、「コップ」がコップであるための特徴をほぼ理解している。だから、材質がガラスであろうが、紙であろうが、アルミであろうが、人々はそれが「コップ」であると認識する。かなり荒っぽい説明で申し訳ないが、これが「モノ」の持つ「普遍性」の一つである。

「先進性」は、「時代性」と言った方がよいかもしれない。デザインには、それを評価するための絶対的評価基準がないのである。デザインの「良し」「悪し」の評価は、時代、あるいは国や地域によって異なり、数学や物理のような「正解」というものは存在しない。すべてが、その時代に生きる人々が「どう感じるか」で決定されるものである。「普遍性」を際だたせることと「時代性」を重視することとは一見矛盾しているが、「普遍性」は「モノ」の本来の「特性」、「時代性」は「モノ」に与える様々な「価値」という意味である、と考えれば納得がいく。

デザイナーという人種は「古い」と言われることを、「何かに似ている」とか、「どこかで見た」と言われると同じ位に嫌う。この場合の「古い」と言うのは文字どおりの「古い」ではなく、今言った先進性に欠けていることなのだ。松尾芭蕉の言った「不易流行」という言葉は、「新しさを重ねて行くこと(流行)が、俳句の普遍性(不易)に通じる」といったような意味である。ものづくりに対しての姿勢をもよく表している。

「奉仕性」という言い方は、少し分かりにくいかもしれない。デザインについて一般に言われている「有用性」の方が分かり易いはずなのだが、私があえて「奉仕性」というのには理由がある。それは「モノが有用であること」、また、「有用なモノをデザインすること」の目的をはっきりさせたいからだ。デザインされた「モノ」が有用であるのは当たり前である。ただし、その「有用性」は「モノ」に潜在する能力として埋もれてしまってはいけないし、人間に害になるものであってもならない。人間の豊かで文化的な暮らしに奉仕できるものでなければならない、ということである。

「包丁」の有用性を疑う人はいない。ただし、これは使い方によっては凶器になる。このこと自体が「包丁」の有用性を損なうことにはならないのだが、凶器にならなければもっとよいと思う。また、自動車は大変に便利な道具であるが、公害や事故の元凶にもなる。凶器としての「包丁」も、事故の元凶としての「自動車」も、単にそれらの持つ本来の機能を発揮しているに過ぎない。しかし、これでは人間に奉仕していることにはならないのだ。