私の経験から言って、手作業から機械による大量生産化やコンピューターによる高効率化の時代に移ろうとも、創造のエネルギーは主体的に蓄積し発散するものであって、そのきっかけとなるのは、現状に対しての自己の不安感や一種の危機感である、と言っていいだろう。
そうした現状の把握は、外部からの客観的情報を取り込むことによってなされると私は考えている。このことから言えば、デザイナーの仕事というものも、主観と客観、継続と変化、安定と混乱を、行きつ戻りつをしながら成されるものだと言ってよいだろう。
私が薫陶を受けた本田宗一郎さんには、モノづくりに対しての強烈な想いがあり、それが創造へのエネルギーに繋がったのではないかと思われる。そうした想いが、技術の固まりのようなオートバイや自動車に表れていたからこそ、世の中の人々に、ホンダの製品は個性的であると受けとめられたのだろう。
やはり、「かたち」という結果は、それを創り出そうとする「こころ」を表わしているものなのだ。そういう意味でデザインは、私にとっては単なる仕事ではなく、日々、「ドキドキわくわく」を与えてくれる活力剤のようなものでもあった。
が、ものつくりの現場でのデザインは、個々のデザイナーの想いとは無関係に進行する場合が多い。度重なる妥協にフラストレーションを募らせる同僚も数多くいたし、若かった私は、こうした傾向に対しよく反発したものである。
先に述べたように、デザイナーにとって最も重要であろう「創造のエネルギー」は、外からの働きかけによって生まれるものでは決してない。客観的に現状を把握し、それを主観的に分析することによって初めて生まれるものだ。
ビジネスとしてのデザインは、客観的かつ現実的でなければ存在出来ないから、そのビジネスが大規模であればあるほど、こうしたやり方は困難になり、「かたち」に、個々のデザイナーの「こころ」を表すことは容易ではない。
とは言うものの、あきらめて惰性に流されてはならないし、機械的にデザインしてもならない。たとえそれがほんの少しであっても、本来人間に備わっているモノに対する「想い」を、かたちに表すのがデザインなのだと私は思っている。
本田さんからたたき込まれたことの一つに、「現場・現物・現実」という言葉がある。もちろん当時も、その重要性は理解していたつもりでいた。が、今になって思うと、「想い」すなわち理想とする姿・形を実現するために、「現場・現物・現実」を知り尽くすことは、目標に向かって跳躍するためのスプリングボードをしっかりとさせることである、と考えるようになった。
想いを単なる夢に終わらせてはならない。夢は実現してこそ夢である。デザインを進めるに当たって、「客観」と「主観」、「論理」と「感覚」のバランスをどのようにとっていくかは、大変に頭を悩ませるところである。そういう意味で「現場・現物・現実」は、客観的にものを見ることの重要性を教えている。
が、大事なことは、主観的に「想う」ことが先にあり、具体的に、まずモノのイメージを膨らます過程(創造のプロセス、すなわち、感じ、想い、考え、行う、というようなことを、言葉で、文字で、絵で、何回もころがしながら育てていく)が大切であると教えられた。
まさしく、創造力は想像力から生まれるのである。そうしたイメージを膨らます過程の中から、「ものつくり」の「こころ」が、豊かに育つのではあるまいか。
その動機が強烈な自己主張であれ単なる仕事であれ、デザイナーの「想なくして創なし」であり、そのための「現場・現物・現実」なのであろう。私はデザイナーが最初に心にイメージを浮かべること重視したいと思っている。AだからB、BだからC、という具合に展開されるデザインのやりかたを好きにはなれない。
「科学的」とは言っても、デザインの場合、目的に到達する道筋は一つとは限らずたくさんあるわけだし、「柔軟」と言うか「いい加減」と言うか、場合によっては目的そのものを別のものにすることだって珍しいことではない。私はそれで全くかまわないと思う。
独りよがりのデザイナーが「これが絶対だ」などと言うデザインは世の中に受け入れられ難いし、もともと世の中に合わせて時々刻々変化していくのがデザインなのだろう。ましてや、家族全体の暮らしのデザインともなれば、なおさらのことである。