日本全国で、美しい富士山の姿が見えるという場所がここかしこにある。かつて伊勢を訪れたとき、「昔は、この二見が浦からも富士山が見えたんよ」と、土地の人から聞いて驚いたことがある。私が、仕事でよく訪れた栃木県の那珂川にかかる鬼怒橋から、冬の晴れた朝、遥か彼方に富士山が望めたときは感動したものだ。
関東には、富士見と名付けた地名が点在する。日本人にとって、富士山が見えるということは、それほどに自慢のできることだったのだ。
私の山荘も、八ヶ岳山麓にある富士見高原というところに建つ。同期入社の藤原君(新田次郎、藤原てい夫妻の長男)に、「思い切って、建ててみたら」と山荘づくりを勧められた。間もなく50歳というころである。
日本の右肩上がりの経済成長にも、そろそろ限界が見え始めていた。そんななかで私自身も、企業戦士として遮二無二走ってきた自分自身を、見つめ直すよい時期かなと思い始めていた。
この話の数年前、新しい住まいを決める際、「ちょっと狭いのでは」、と反対する家内を押し切って、私のわがままを通し購入した代々木公園と八幡さんの境内を借景にしたマンション。案の定、二人の娘の成長で手狭になり、押入れは衣類や日用品、それに書類などでぎゅうぎゅう詰めに。貸倉庫でも借りないとどうにもならない状況にあった。
家内に相談したものの、「出張ばかりでほとんど家に帰らないのに、山荘なんて」と取り合ってくれない。娘たちも、当然、母親の味方だ。私としては何よりも「変わる」ことが大事だと考えていた。なので、何とか思いを遂げるべく、家族と話し合う機会をできる限りふやすことにした。
今住んでいるマンションを売れば、郊外の広い一戸建てを買えるかもしれない、が、家族でじっくり話し合ってみて、みんなこの界隈での生活が気に入っていることが分かった。根気よく話し合いを重ね、ついに、山荘をつくる家族全員の同意を得た。
山荘をつくる目的を、私の「50歳のモニュメント」とすることで家族も納得。そして目標を、家族のみんなのために、「東京のマンション住まいでは得られないものを!」と定めた。全員の意識が高まってきた。
庭が欲しい、2階もいいね、広いバルコニーもつくろう、それぞれの部屋が欲しいなど、家族みんなの要望を入れた。家族の心が一つになれたのも素晴らしいことであった。
こうして、富士見高原での山荘づくりが始まった。まるで車の開発のように、である。一瞬、初代シビックをつくった時の気持ちに帰った。が、思い返すと、私は一度も、得意とする絵を描いて家族に説明しなかったなと。不思議にも、言葉と文字と写真だけで計画は進んだ。
幸い土地は、30代のはじめに購入済みであった。想いは高かったが、肝心の先立つものに限りがあったし、それに山荘に行ったとしても、ゆったり過ごす時間もないことは覚悟していた。いろいろ考えた末、実現のための手段として、安くて合理的で高効率な2×4(ツーバイフォー)工法のプレハブを選んだ。
山荘の象徴である薪を使う暖炉も強く勧められたが、よくよく考えてやめにした。部屋が暖まる前に帰ることになるのがオチだからだ。また窓にはすべて、雨戸ではなくシャッターを付けた。色気はないが楽しんだ後は、脱兎のごとく東京へ、となるに違いないと。
最初のうちは山荘仲間から「文化住宅」と揶揄されたが、今もって後悔はしていない。以来、年に30日くらいはこの山荘で過ごす。思い立っては車で1時間半、別の自分に会いに行く。自然の懐へ抱かれに。
土地の入手から10年くらい経ったころ、一度は山荘を建てるつもりで、群生している唐松や赤松を、唐松だけを少し残してあとは思い切ってすべて伐採した。が、結局そのときは、いろんな事情が重なり建てるには至らなかった。
その後年月を経て、伐採した跡に不思議なくらいいろんな種類の木が生えてきて、それがぐんぐん大きくなり間引きや剪定に大わらわ、界隈では目立つほどの立派な雑木林に育ち、いろんな鳥がやって来ては四季を楽しませてくれる。
猛烈会社人間が、潤いを手にした喜びはもちろんのこと、それよりも何よりも、自然が教えてくれる深遠な摂理に、訪れる度に心をときめかしている。そして今では、家族が憩い、心を癒し、みんなの心を繋ぐ、なくてはならない場になっている。時間をかけて、家族の総合力でデザインした我が家のモニュメントとなった。