お釈迦様は生まれてすぐに、「天上天下唯我独尊」、と声を発したと先にも述べた。よく、「お前は唯我独尊だ」と窘められることがある。自分勝手でよくない、と言われているようなものだが、お釈迦様の本意は、世間(せけん)には、私という人間(じんかん)はただ一人、一人ひとりの人間が大事、ということであったはず。
現在、この地球上に70億を超える人間が住んでいる。その一人一人が、個を磨き、育てることの大切さを説いている。個を確立したうえで、天と地との間(環境)や、人と人の間(交流)を熟知する人間になれ、という教えではないだろうか。
このところよく、「絆」や「繫がり」を持て、と言われる。これらが大事なことには異論はないが、ただ単に、絆を持ちたがったり繫がりたがったりすることが良いとは思えない。烏合の衆と言われるのがおちだ。まず、あの人と絆を持ちたい、繋がりたいと思ってもらえる、いわば「存在が期待される」人間でありたいものだ。
そこで、存在証明いわゆる「アイデンティティ」が問われることになる。自分が自分である証明をしなければならない。「自分らしさ」の構築が必要となる。司馬遼太郎は、このアイデンティティを割符と訳している。二つの板切れが、ピタッと合わないと本人確認ができない、というところからきているようだ。見方を変えると、他との比較で自分の存在が確認されるわけだ。他との違いが問われる、ということにもなる。
DNA(遺伝子)が犯人を特定するという話は、TV番組の刑事ものドラマの定番だ。DNAは、本人を特定するための縁(よすが)にはなるだろうが、本人をつくる総てかというとそうではない。科学的根拠には心許ないが、DNAが大きく関わると言われる個人の性格は、父からが四分の一、母からが四分の一、そして残りの四分の二、すなわち全体の二分の一は、本人の意志と努力で創りあげられる領域と言われている。
自分探しで苦しんでいる人は、まず両親をよく見ること。きっと自分が何者であるかを探るヒントが得られるだろう。そして自分の「好き」なものやことを見つけ、それベースとして、「自分らしさ」づくりに突き進むことだ。ありたい自分の姿を想像し、いまの自分とのギャップを如何にして埋めるかを探ることによって、到達の道が開けるというものだ。
明治時代に、作家や政治家として活躍した福地桜痴が、英語の「society」を日本語に訳してつくったとされる2文字熟語の「社会」がある。社会は、家々(社屋)が集まって(会って)つくられる、とも読める。それを逆さまにしたのが「会社」。会社とは、人々(お金)が社(家)に集まって(会う)つくられる、ともとれる。いずれも、社(家)が単位の集団である。それを取り仕切る家長がいたり、社長がいたりと。そこで、どんな社(家)であるかが重要になってくる。課長や社長の責任は重い。
企業の場合、創業者の個性や想いが、その企業の理念やその後の在り様に大きく影響する。例えば、よく引き合いに出されるのが、自動車企業のトヨタとホンダ、そして電器企業のパナソニック(松下)とソニーである。創業は織機からの豊田佐吉と2輪からの本田宗一郎、家電からの松下幸之助と音響からの井深 太。創業者の個性や想いが、企業のカラーとして、今も、そのまま色濃く保たれている。
こうしてみると、個人をつくるのも家庭を築くのも、地方自治や企業をつくるのも、さらに言えば国造りも、基本は同じだと言える。どうあれば、存在が期待される個人 家庭 町村・企業 国家と見做されるのか、そのために何を為すべきか、ということになる。結果的に、地球上にある200に近い国々が、それぞれに個性を放ちお互いに尊敬しあい、その結果、世界が平和になるに違いない。すべて、デザインするという作業なのである。
かつて、我が国の総理大臣が、“美しい国”をつくろうと宣言した。素晴らしいことだと感激した。が、残念ながら、“美しい国とはどういう国か(What)、そういう国にするにはどうすればよいか(How)について、明確な提示がないまま頓挫した。
経済再生を先に望んだ、受け手である国民の知的レベルが低かったためか、それとも、具体化すべき出し手である国のスタッフの企画能力が至らなかったためか。「“富士山みたい”になろう!」と言えばよかったのに。日本人なら、すぐに分かっただろうに。